「荒神さん」とは?
「荒神さん」とは仏さまのお名前でございます。
荒神堂はその名の通り「荒神さん」を御本尊としたお寺です。当寺の荒神さんは2体あり、そのお名前を「三宝大荒神(さんぼうだいこうじん)」と「子安大荒神(こやすだいこうじん)」といいます。
三宝大荒神さまは「火災」や「厄難」から私たちを護ってくださる仏さま、子安大荒神さまは「安産」、「子育て」の仏さまとして多くの皆さまに信仰されております。
特にこの荒神堂の両荒神さまは、長きにわたって皆さまから尊敬と親しみを込めて「荒神さま」ではなく「荒神さん」とお呼びいただいており、あわせて当寺を善光寺平では「村山の荒神さん」とお呼びいただいております。
荒神堂のはじまり
武将・村上義清公と三宝大荒神
1体目の御本尊の三宝大荒神は、大宝2(702)年の行基菩薩(668~749年)の作と伝わっております。
作者の行基菩薩は奈良時代の僧として名高く、奈良県の東大寺大仏の建立の折には、聖武天皇のご指名で建立の責任者として活躍したことでも有名であります。この三宝大荒神は荒神堂の創建前は、信州坂木(現在の埴科郡坂城町)にあった葛尾城(かつらおじょう)の城主・村上義清公の念持仏(武将等が心の拠り所として常に携帯する神仏の像)として伝わった像でございます。
加治姫のお産と子安大荒神
ある時、義清公の夫人・加治姫は難産にたいへん苦しんでおりました。義清公は、姫のあまりに苦しそうな様子を見るに見かねて、城内にお祀りしていた念持仏の三宝大荒神に一心に祈られました。すると、たちどころに姫のお産は済み、無事に男児を母子ともに健康に出産せられたのでございます。しかし産後は姫の乳が乏しく、お産みになった赤ちゃんの夜泣きを義清公と姫の頭を悩ませました。ところが、ある夜だけあまりに静かなために起きてみると、女性のような方が我が子に乳を与えてあやしていたのです。
そのことを義清公と姫は、「その女性は私たちの子育ての苦労を思って三宝大荒神さまが化身(仮の姿)となってわが子をあやしてくださったに違いない」と思し召しになられました。そして三宝大荒神への感謝を込めてあやしてくださった姿を仏師に命じて造立させ、その像を「子安大荒神」と名付けられたのでございます。
両荒神と義清公の別れ
その後、5回にわたる川中島の合戦により北信濃に勢力を広げた義清公も、武田信玄に居城・葛尾城を攻め落とされてしまいました。そしてついに主君である上杉謙信のいる越後へ逃れることとなりました。その道中、当時川中島で栄えていた蓮香寺(れんこうじ)というお寺に2体の両大荒神の仏像が預けられることとなりました。
後に蓮香寺も戦禍を逃れるために西の方面へ疎開することとなり、現在の荒神堂のあるこの地へ遷座されたのでございます。そして、川中島平も平安を取り戻し蓮香寺は元の場所へ戻ることとなりましたが、時に川中島を離れ早や10年を過ぎていました。10年という月日は長く、すでにこの地に荒神さまへの信仰が盛んになっており、両荒神さまの像だけは残してほしいという地元の人々からの熱意により、両大荒神だけはこの地に残されることとなりました。
安産祈願と厄除祈願の霊場として
川中島合戦により蓮香寺がこの篠ノ井村山の地へ疎開している間に、荒神さまにまつわる義清公と加治姫のいわれが瞬く間に広まっていきました。そして霊験あらたかだという話も善光寺平に広まり、荒神さまへの信仰(荒神信仰)が根付いていきました。大正4(1915)年3月に子安大荒神が国宝に指定されてからは、数多くのご婦人方による「荒神講(こうじんこう:当寺に団体でお参りに行くグループ)」が結成され、県内外にこの荒神堂の名が広まりました。
善光寺平に荒神信仰が根付いた名残として、親子三代、それ以上にわたって信仰を集め、今に至っております。
大正年間の荒神講の名簿帳
戦前まで使われていたパンフレット